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学長対談シリーズ 第4回ゲスト:100歳ジャーナリスト むのたけじ(武野武治)さん

第4回ゲスト:100歳ジャーナリスト むのたけじ(武野武治)さん

東京外国語大学の前身である東京外国語学校のスペイン語科を1936年に卒業され、報知新聞記者を経て、1940年朝日新聞社に入社するが、敗戦を機に戦争責任を感じて退社。その後、地元の秋田県で1948年に週刊新聞『たいまつ』を創刊し、反戦の立場から言論活動を続け、執筆・講演等を通じて、100歳を迎えた現在もジャーナリストとして活躍しています。今回の対談では、むのさんの学生時代の記憶や今後本学へ期待することを伺いました。

p1.png立石博高学長(以下、立石学長) 今日は、東京外国語大学の私たちにとって大先輩に当たり、今年100歳をお迎えになり、現在もなおジャーナリストとして活躍されている武野武治(むのたけじ)さんにお話を伺いたいと思います。

武野武治さん(以下、むのさん) はい、100歳半になりました。1915年に秋田県で生まれ、1932年の4月に東京外国語学校(以下、「外語」)へ入りました。1936年に外語を卒業し、新聞記者として有楽町の新聞社で働き始めました。その後、朝日新聞社の従軍記者として中国やインドネシアに行きました。敗戦したあの8月半ばに朝日新聞を辞め、もう一度自分を洗い直そうと、2年後に秋田県で小さな新聞の発行を始め、日本社会を組み立て直すための勉強を若者たちと一緒に続けてきました。

立石学長 週刊新聞『たいまつ』ですね。1948年に創刊されて、78年まで続けられ、その後も著作や講演などでご活躍されています。今年7月に朝日新書から出版された『日本で100年、生きてきて』を読ませていただきました。それとシリーズ本『むのたけじ 100歳のジャーナリストからきみへ』の1冊『学ぶ』を持って来ました。

むのさん はい、このシリーズは、13歳以下の少年少女にメッセージを伝えるという趣旨で制作しています。5巻シリーズで最後が『人類』なのですが、その原稿を扱いながら、外語時代のことを何度も思いました。やはり一国民とか一個人であると同時にわれわれは人類の一員であり、人間の感覚、生き方が考えられなければならないと思うのですが、私にとってそれは外語で育てられたものが大きいです。

立石学長 20ページに「人の観察眼は三種類ある。望遠鏡の眼と顕微鏡の眼と肉の眼。遠くから広い視点で見ることと、できるだけ近づいて細部に眼を凝らす。それから、もう1つ面白いのは等身大の視点で見る。その3種類の眼で人や出来事に向き合わなければならない」。とても感心させられました。

むのさん そういう眼で見ろと教え、最初の痛棒を食らわせたのは、外語の外国人の先生でした。後でお話ししますけど、今なおショックを受けている出来事です。

p2.png立石学長 まず、むのさんがどうして外語へ入学されたかというところからお話を聞かせていただけますか。

むのさん 私は秋田県の農耕地帯の小百姓のせがれとして生まれました。当時、小百姓のせがれというと、小学校を卒業した後は、下男・下女として地主の下働きに行くのが当たり前でした。中学校や女学校へ進学できるのは生徒の1割いるかどうかだったので、私は当然入れません。ところがある日、お寺の和尚さんが来て、私の父に「お前の息子は学校の成績いいそうだ、育てなきゃ駄目だぞ」と言ったもので、中学校へ進学することになりました。秋田県立横手中学校に進学しました。約40人いた先生の中に外語を出た教師が3人いました。

立石学長 3人も。

p3.pngむのさん ええ、3人もいました。1人は小野譲先生、英語科で横手中学校の校長です。それと、英語教師が2人、英語科出身の増田さんとインド語出身の五日市清志さん。当時から外語の卒業生は各国で様々な仕事に就いている方が多かったのですが、それらの同級生と先生が各国の経験などについて英語で手紙のやり取りをしました。そして増田先生が、その英語の手紙を、生の英語の勉強になるから、と私たち生徒に読んで聞かせてくれました。それがおもしろくてたまらないのです。その中で、海外で働いている外語の卒業生が日本国の「外務省」を英語でなんて呼んでいたかというと、「Kasumigaseki Bakayarou(霞ヶ関馬鹿野郎)」というのです。それを聞いてきゃっきゃと笑いながらも、国際連盟で日本が世界から理解されずに孤立しているような感じがして大変情けない気持ちになりました。だから外務省を自分の手で変えたい、そう思ったわけです。ただどこの学校へ行って何を学べばよいかわからない。そんな時、父が先生と懇談する機会があり、家へ帰ってくるなり、「武治、今日、五日市清志という先生と話をした。こんな筋の通った立派な人が我々の近所にいるとは知らなかった。今日は本当に勉強になった」と言うので、「五日市先生は東京外国語学校を出たよ」と教えたところ、「お前もそういう学校へ入ってみないか」と父が言うのです。

立石学長 情熱的な方ですね。

むのさん そして、米一俵ずつ売ってそのお金を毎月送るから外語へ入ってみろと言うのです。私はただ「Kasumigaseki Bakayarou」の外務省で働きたいという一心で、進学することにしました。

立石学長 やがては外交官になろうと思ったわけですね。

むのさん はい。ところが、毎月米一俵12円の仕送りが2年になったら遅れだし、とうとう2年の1学期末に学費を送れないと父から連絡がありました。悲観しておりましたところ、ちょうど外務省が各国の大公使館で働く「書記生」の募集を行うという話を聞き応募してみました。ところが、明日試験だという日になって外務省から「あなたは年が若過ぎるから駄目だ」との手紙が届きました。「Kasumigaseki Bakayarou」じゃない外務省を作ろうと思って一生懸命やってきたのに、それをぽんと断られたものだから、外務省を恨んで。「くそったれ。日本国外務省は年齢で外交をやるようです。日本中の老いぼれを集めたら、さぞかし立派な外交ができるでしょう。頑張りなさい。」なんて悪態の手紙を書いてしまいました。

立石学長 その後、秋田へ戻られたのですか。

むのさん とりあえず夏休みに帰りました。そして、秋田県のある貴族院議員が個人で育英会をやっていて1人15円ずつ20人の学生に出しているというのを聞いて相談に行き、卒業までの学資を支援してもらえることになりました。その後は卒業まで何をすればよいのかわからず本当に迷っていましたが、社会の矛盾を正すためには新聞記者として世の中のことを調べて記事を書いたりすることに意味があるだろうと思い、新聞記者になることにしました。

立石学長 外語へ入学した頃の話を教えていただけますか。なぜスペイン語を選ばれたのですか。

むのさん スペイン語を選んだのは、スペイン語を公用語としている国が一番多いので外務省で働くには都合が良いだろうと考えたからです。南米はほとんど全部そうだし、フィリピンも外交語はスペイン語でした。

立石学長 東京では下宿されていたのですか。

むのさん 東大崎のたばこ屋の2階に下宿していました。アルバイトをして稼がなければならなかったのですが、不況で何も仕事のない時代でした。結局、支出を節約して、食うや食わず本当の貧乏書生で4年を過ごしました。

立石学長 下宿先の部屋の広さはどのぐらいでしたか。

むのさん 六畳一間。1ヶ月5円でした。東大崎から外語のある東京駅までの定期券が2円70銭で、部屋と定期券だけで7円70銭。父からの仕送りは12円でしたから、残りは4円ほど。それで三度三度の飯を食べなければならない。労働者の多い五反田や大崎付近は朝飯がわずか2、3銭で食べられたので住まいとしては都合が良かった。それと、外語は神保町のすぐ隣でしたから、古本屋で安いけど高く売れそうな本を見つけては、別の古本屋に売って差額を稼ぐ、そんなこともやっていました。外語には金持ちの学生より貧しい学生の方が多かったので、そういう情報交換をよくしました。

立石学長 外語時代の同級生のお名前は覚えてらっしゃいますか。

むのさん 「江原武」。私の一番の親友でした。

立石学長 『東京外語スペイン語部八十年史』のスペイン語科の中に江原さんの「川柳ブエノス」というものが残っています。「革命児、非業に死んで美しい」「母校では海外雄飛のその1人」「海外において君が代は無条件」。そんな川柳を残されています。

むのさん 彼は前橋の出身で、お父さんは陸軍少将でした。彼は法科で私は文科で隣り合わせでしたけど、彼は将軍の子ということが分かり何となく避けていました。1学期間あまり口利かなかったのですが、明日から夏休みという時に、やはり何か心引かれるものがあったのでしょうね、手紙のやり取りをしようということになり、前橋と秋田県で手紙のやり取りをしました。そしたら、本当に話が合うものですから、結局私の最初の親友となりました。

立石学長 書籍の中で「友というものはどこにいるか分かりません」と書いていらっしゃいますね。「反発を感じる相手が一番の友になることもある」と。すごく印象的なお言葉です。

むのさん 江原は将軍の息子ですが、歌舞伎や能や日本の音楽などがとても好きでした。卒業後はブエノスアイレスに行ってしまって、手紙のやり取りは続けましたけど、とうとう会えずに終わってしまいました。本当の親友が生まれたのも外語でした。

立石学長 学生時代の勉学はどうでしたか。

むのさん そうですね。私は本を存分に買えるような余裕はなかったので、図書館をよく利用していました。金澤一郎という名物先生がいました。それから、笠井鎮夫先生と高橋正武先生。それから翻訳家の永田寛定先生。

立石学長 セルバンテスの『ドン・キホーテ』を訳されましたね。私も『ドン・キホーテ』を読みますが永田さんの訳が一番好きです。

むのさん それから、スペイン人ではドン・ホセ・ムニョス。ムニョスさんの授業でスペイン語の作文をする授業があったのですが、2年のある日、作文をムニョスさんのところへ持って行ったら、突然スペイン語で「武野武治、ここへ来い」って大きな声で呼び出されました。怒られるようなことを書いた覚えがないのに。「君、日本人はこんなでたらめな物の考え方をしているのか」と。説明を受けてよく分かりました。作文の中で私が「半信半疑」、要するに半分信じて半分疑う、それをそのままスペイン語に訳したのですね。それをムニョスさんが「考えてみろ、信ずるということは全く疑わないことだ。半分疑ったら何で信ずるになるのか。日本人は、半分信じて半分疑う、そんなでたらめな態度なのか」と怒るのです。他の学生も皆びっくりしていました。私は、あれほど鋭く胸を刺されたことはありませんでした。全くムニョスさんの言うとおりです。その後、文章を書く時はいつもそれを思い出しました。100歳になった今も。言葉を飾って偽物を持ち出しちゃ駄目だという私の人生観を作ったのも、外語でのたった1時間の授業でした。

p4.png立石学長 むのさんの文章を書く時の姿勢にも表れているわけですね。授業以外に課外活動などはされましたか。

むのさん 部活は「弁論部」に入っていました。1930年代はちょうど中国と戦っていましたから、戦争反対や平和運動といったことが好まれず、学生運動はあまりできませんでした。ただ1つだけ、どこの学校にも弁論部があり、各学校主催で弁論大会をやり交流しました。それも我々が卒業する頃までじゃないでしょうか。

立石学長 その後は、さらに厳しい環境が生まれたのですね。

むのさん 卒業する1936年に二・二六事件がありました。外語はその日試験日でしたが皇居の隣にあったので兵隊に占領されていて学内に入れませんでした。結局は3日間ぐらい学校へ行けませんでした。

立石学長 卒業後、報知新聞社を経て、朝日新聞社に入社され、その後、敗戦を迎えましたね。その辺りは、いろいろなところでお書きになっていらっしゃいますけど、その後、外語との関わりで記憶に残ることはございますか。

むのさん 戦争中は外語との関わりはありませんでしたね。スペイン語の知識を新聞記者として使う機会も10回あるかないか程度でした。朝日新聞社を辞める2年前に、外語の中国語の夜間部へ通う許可を新聞社からもらい、中国語の勉強を始めました。今後中国との関係がとても重要になると感じていました。丸1年通って、翌年1945年、外語が焼けました。そのため上野の美術学校に外語が臨時校舎を持ちますが、勉強が続けにくくなり、結局は通学ができなくなりました。

立石学長 その頃、東京外国語学校から東京外事専門学校と名称が変更されましたね。そこの夜間部で中国語を学ばれたということですね。

むのさん はい。中国語の先生が60歳代ぐらいの年配の先生で、包(パオ)さんという方でした。世界中で一番きれいで正確な中国語の発音をすると評判な方でした。毛沢東政権ができた時に、パオさん宛てに毛沢東から中国に戻ってきてほしいとの説得の手紙が来たという話を聞きました。パオさんは「私は40歳の頃に日本の青年に中国語を教えようと決意して東京に移り住んだ。その決意は変わらない」と応えたそうです。そのパオさんから私、中国語の発音は非常にいいと褒められてね。

立石学長 最後に、今の東京外大に期待することがありましたら、お聞かせいただけますか。

むのさん 人類全体の歴史の歩みの中で、人類の歴史を導く文明・文化の基本に触れてほしい。73億の人類の言葉全体を対象とする大学、「人類語学院」です。今後間もなく人類の大問題になるのは「少数民族」だと思います。その時に、その人々がどういう生活をしてどういう言葉を使いどういう物の考え方をするのか、専門家が育つと良いですね。現実に存在している民族のどこの言葉についても研究者がいるような、そういう大学になったらいいなと思います。

立石学長 そうですね。今現在、東京外国語大学では学生定員を持つものとしては27の専攻語があります。そのほかに研究言語的な形で授業として提供しているのが約60あります。ただ、今むのさんが言われたように、世界には他にも無数に言語がある。東京外大に来れば、そうした無数の言語の数多くを学ぶことができる、或いはたずねることができる、そんな大学になればいいなと思います。東京外大に「ワールド・ランゲージ・センター(世界言語教育院)」というセンターを作る計画がございます。近いうちに、先ほど申しました60言語を80言語ぐらいには増やそうと思っております。そしてトルクメン語など日本ではあまり知られてないけど重要な言語を開講していきたいと思っております。世界諸地域の言語をできるだけ開講するとともに、その言語を使用する人間集団の文化についても扱っていけたらと考えています。

むのさん 言葉は生活、生命そのものですから。ぜひ、そのような道を開いてほしいと思います。

立石学長 むのさん、今後もお元気でご活躍ください。そして、東京外大を温かく見守っていただければと思います。長い時間ありがとうございます。

むのさん 若かった時代を思い出させて本当によかった。どうもありがとうございました。

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右から:武野武治さん、倉方大学文書館研究員、立石学長

本対談の動画(ノーカット)は、本学TUFS Channelでご覧いただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=xUFPAL4m9_E

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